かぴばらのつぶやき

カピバラが大好きなフランス語を学ぶ理工学部生。日々生活する中で思ったこと、感じたこと、考えたことをつらつらと書いていきます。

fukushima50を見たはなし

記憶が一瞬で戻ってきた

3月のしかも11日に近い日に見れてよかった
当時は10歳。小学校4年生の時に体育でバスケをしてた時に大きな揺れを感じて、最初は地震かとしか思ってなかったけどどんどん大きくなって座ってた体育館の角からすぐさま腰を上げて先生の指示を仰いだ。もし体育館で地震を感じたら体育館の真ん中に集まれと避難訓練の時に言われてたけど、その時はすぐに外に出た。想定外の揺れの大きさだったからかもしれない。みんなが泣いたり叫んだりしている中でも先生たちは決して落ち着いてはいなかったが、パニックを大きくしないようにきっといろんな工夫をしてくれていたのだろう。しばらく校庭でクラスごとに並んで座っていると銀色の薄くて大きいシートが配られた。どうやら体に巻いて暖を取るためのものらしい。3月11日は寒かった上に半袖の体操服で汗をかいていたのだから体温は下がるばかりだった。度々来る揺れと寒さで若干パニックを起こしそうだったけれどなんとか保った。運動会の時いろんな国の旗を取り付ける高さ20mほどの柱が折れるのではないかというくらいブンブン揺れているのが脳裏に焼き付いて9年経った今でも離れない。
なんとか家に帰ってテレビをつけて愕然とする。すでに死者は1000人を超えていて津波の情報が出ていた。原子力発電所が爆発し、もう自分は死ぬのかなって本気で思った。ボーリングの弾が倒されて行くように流されて行く家。死者数のメーターが動く様子。発電所の爆発の映像。見ているだけしかなかった。この先復興なんてできるんだろうか。元どおりになんかなれっこない。終わった。全く希望が見えなかった。
なんで神様はこんな災害を起こしたんだろう。初めて神様を攻めたのはこの時だったのかもしれない。こんなに街を破壊して発電所まで壊して放射性物質がむき出しになった。なんで。なんか日本人はそんなに悪いことをしたのか。
福島の一件がおさまったところで立入禁止区域の人が転校してきた学校でいじめを受けているというニュースがあった。悲しい。福島の米や果物は売れなくなった。cmでは生産物の放射線量を明記して数字で大丈夫だと示してもあまり効果はなかった。
 

映画について

そんな記憶が一気に蘇らせた冒頭5分。怖いのか悲しいのかわからないけど気づいたら泣いていた。涙が止まらなくて最後まで見れるか自信がなくなった。
そして申し訳ないという気持ちがどんどん溢れてくる。私は東電の人が無能だと思っていた。ベントするなら早くすればいいのにとか「想定外の津波」とは言わせないとか。でも日本人の性格そのものが全てこの事態を生んだのだと分かった。無知な人が指示を出すのを待たなければならない。首相は何も分かっていない。誤解していて申し訳ないという気持ちとありがとうという気持ちが一気に溢れてきた。
東電の人がいなかったら関東全域も住めなくなっていた。
 

伝えたかった事

これを通して神様が伝えたかったことが少し分かったような気がする。もしかしたら人間は自然をコントロールできると思いはじめたからなのかもしれない。自然の力をなめるな。人間は自然をコントロールすることなんでできないしできると思ってはいけない。
 

9年前との比較

そしてその時スマホがまだ普及していなくて不幸中の幸いとはこのことだと思った。現在は情報がありすぎる。あることないことすぐに書き込める。すぐに人を神として崇めるしすぐにしに追いやることだってできる。地震でパニックになっているところにいろんな情報が出てきたら何が起こっていたか考えるのも嫌なほどだ。
技術の発展が本当に人間にとっていいことなのか考えながら私は将来働く必要があると感じた。
現在のコロナ騒動にもこれは当てはまる。Twitterで「トイレットペーパーがなくなるだろう」と一言書いただけで世のなんの知識もない主婦は家族のためにと買い占める。マスクの高額転売が行われる。なんて人間は愚かなのだろうか。これほどの技術があるならもっと違うことに使えないのだろうか。もっとみんなが安心して暮らせる時間を増やせるように努力しなければならないのではないか。
3.11から学んだことを応用して今全世界で起きているパンデミックを収束させられるよう人間の技量が試されている。